2015年11月24日火曜日

【ノアイレス】‐BAR‐⑨

心臓が、まるでそれ自体が意思を持っているかのように、大きな波を打っていく。

「君たちが何がしたいのか、何をしようとしているのか、私には想像もつかない。それなにの、『どうしたい?』と、私に聞くのか? 主導権を持っているのは君たちだ。好きにしたらいいさ」

「あなた自身のことを聞いているのに?」

答えにならない言葉の数々が、頭の中で渦を巻く。
その渦の奥には深い闇がぽっかり口を開けていて、形を成さなかったものは全て、その中へと吸い込まれていった。
感情も、言葉も、その闇の中へ入ってしまえば、もうそこから出てこない。

「ああ」

感情を伴わない投げやりな返事をエマに返すと、コツコツと少し重みのある靴音が聞こえてきた。
視界を失ってしまった私には、いつも聞いているはずの音が違った音に聞こえていた。




「ケイか? 君の靴音、初めて聞いた気がするよ」

ゆっくりとした靴音は、私の顔のすぐ目の前でピタリと止まり、そして、上の方から響いてきたんだ。いつものケイの、あの穏やかな感じとは全く違う、冷たく尖った穂先のような低い声がね。

「あなたがあなたを投げ出すというのなら、それならそれで良いでしょう。ですが、そう決めたのはあなた自身。主導権がどうのこうのというのは言い訳だ」

「……、私の目を隠して、手足を縛りあげたのはケイ、君だ。なのに、君が私に説教か?」

「私は事実を言ったまで。確かに、あなたの身体の自由を奪ったのは私です。ですが、それを望んだのも、自分のロウソクの炎を吹き消したのもあなただ。それは、覚えておいてください」

私は、返事をする気にもならなかったよ。

彼らは狂っている。
常識や一般論は通じない。
君たちのやっていることは普通じゃないと叫んだところで、どうせ事態は好転しないだろう。

目の前の状況を受け入れるしかないんだ。
いつもと同じように。

「エマ、こちらへ」

彼女を呼ぶ声と、彼の足音が遠ざかっていく。
私は、床の冷たさと天井ファンが作っている風の流れを感じていた。

右回りに流れていた空気は、左回りに向きを変えた。

小さな頃から思ったように事は運ばず、小さな願いも大きな夢も、どれひとつとして叶わなかった。真面目に生きれば生きるほど、自分本位で好き勝手に生きている者たちの餌食になる。精一杯努力をしたって、出る杭は打たれてしまう。

自分を殺し、言葉を飲み込み続けていく毎日から、私を救ってくれていたのは彼らだったのに。

私の他愛もない話にエマは笑い、ケイはグラスに氷をカランカランと入れながら、静かに笑って美味い酒を作ってくれた。
そうやって、彼らと夜の一時を、長い間過ごしてきたのに……。

…………、
長い……間……?

あの時、私はふと気づいたんだよ。
彼らとの、遠い記憶がないことにね。



いや、あるにはあったんだ。でも、その記憶はとても曖昧で、輪郭がはっきりしなかった。
彼らとの思い出は海の底に沈んでいて、私はそれを波の上から眺めているように感じたんだ。

私がいつからこのBARに通い始めたんだろう。
私はなぜ、ここへ来るようになったのか。
私は、どうしてこの場所を知ったんだ……。

「さあ、エマ。そろそろ始めましょう」

自分に浮かんでくる不思議な思考に戸惑っていると、私の目を覆っていたネクタイの結び目がふいに解かれ、思っていたようなことは何も起こらず、意外なほどあっさりと開かれた視界の中に、深緋色の布地がはらりと宙を舞っていった。

そして、私は……。
……、言葉を失ったんだ。

「ようこそ、ノアイレスへ」

いつもと変わらない、嬉しそうな笑みを浮かべているエマの姿は、視界を閉ざされていた時と何も変わらない、深緋色の世界に浮かんでいた。

笑みを含んだ、あの時の彼女の声は、まだ私の頭の中に残っているよ。



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2015年11月21日土曜日

【ノアイレス】‐BAR‐⑧

ケイは右手で真っ赤なネクタイを緩めながら、左手はキラリと光る何かを掴もうとしていた。
エマは興奮したような笑みを浮かべて私を見ている。

彼らは……、何をしようとしているんだ?
私を……、殺すってことなのか?
そんなこと、あるはずない。

そんな非現実的なことが、自分の身に起こるはずがないじゃないか。

そう思っていたんだ。




おかしいだろう?

予測もつかない何かというのは、必ず日常の中に降ってくるのに。
手のひらを反すように、日常が非日常へと瞬時に変わることだってあるというのに。

それでも、あの時の私は、目の前で起きている現実を、現実として認めようとはしなかった。

突発的とも思える事件や事故は、世界中で毎日のように起きている。
悲しみを込めた口調が事件を伝え、涙と、怒りと、憤りを映し出す映像が流れている。

他人を攻撃することに快楽を覚える者だっているだろう。
攻撃して踏みつぶし、高笑いをしている者も多い世の中だ。
血を好み、悲痛に歪んでいく顔から喜びを得る者だっているかもしれない。

そして、自分が大切にしていた者たちが、そんな猟奇的な性癖を隠していたとしても、全く不思議ではないはずなのに。

私は逃げようと思わなかった。
そんなこととは無関係だと思っていたんだ。
席を立ち、駆け出そうとはしなかった。

彼らは私のことを馬鹿にして、高笑いした挙句に、おかしな遊びを始めたんだと思っていたんだよ。

でも、違った。

真っ赤なネクタイを左手に持ち替えて、ケイが静かに近づいてきたんだ。
笑みを浮かべた彼の顔が、どんどん近づいてくる。

「なにをしようっていうんだ。もう、悪ふざけはやめろよ」

蔑みの視線と腹立たしさを含んだ私の声は、ほんの少しだけかすれていた。

口角を上げながら近づいてきた彼は、深緋色のネクタイで私の目を塞ぎ、手足も、布のような何かで縛っていった。首筋には冷たい何かを当てられて、そして、彼は私に恐怖を運んできたんだ。



「あなたが望んだんですよ? 滅べばいい……とね」

「その望み、叶えてあげるわ」

静かに言い放たれた彼らの言葉は、私の恐怖を更に煽っていった。

人はね、強い恐怖を受けてしまうと、全ての感覚がおかしくなってしまうんだ。

地についているはずの足は、地面の硬さを伝えない。
現実を見ているはずの目は、はっきりとした色を伝えてこない。
激しい心臓の鼓動は周囲の音をかき消して、臭いを感じるはずの鼻は空気すら吸い込めない。

萎縮してしまった自分の体は、自分が思った通りには動かない。
石膏か何かのように固まって、強がるだけで精いっぱいだった。

「一体どういうつもりだ? もう終わりにしろよ! やり過ぎだ!」

逃げ出さなかった後悔と、彼らへの不信と怒りと恐怖と、そして激しく打つ心臓の音が私を支配していく。

冷たい血が全身を駆け巡り、感情が抑えられなくなっていく。
寒くもないのに全身が勝手に震えだし、私はカウンターチェアから転げ落ちてしまったんだ。

床に倒れた哀れな男は、そのままの姿で叫び続けた。
思いつく限りの罵声を怒りのままに、石を投げつけるように叫んでいたんだ。

どの位の間、そうしていただろう……。

次第に、怒りの声は哀れな呻きに変わっていったんだ。

そして私は……

……、諦めたんだよ。

度が過ぎる悪ふざけなのか、それとも彼らが狂気の持ち主なのか。
そんなもの、もうどちらでも良くなっていったんだ。

それどころか、悪ふざけでなければいいとさえ思い始めていた。

『ああ、これで終われるんだ』と、どこかでホッとしていたんだ。

日常的に受ける精神的な暴力と、先の見えない暗闇の中のトンネルを歩き続けていくことに、自分自身の限界を感じていたからね。

もう、どうでも良くなってしまったんだ。

静かになったBARに、エマのヒールの音が響いている。
衣擦れの音が近くで聞え、そして、彼女は私の耳元で囁いた。

「ねえ。あなたは、どうしたい?」

ネクタイの奥で薄っすらと開いた視界には、深緋色の一色だけが映っていた。




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2015年11月20日金曜日

【ノアイレス】‐BAR‐⑦

深緋色に染まったグラスが、カランカランと澄んだ音を立てながら、目を見開いている私の前に差し出された。金色のカウンターは、古いテーブルライトとロウソクの明かりに照らされて、赤橙の色に染まっている。

二人がとった予想外の行動に、私は目だけをキョロキョロさせながら、若草色のカウンターチェアに深く座り直して、エマとケイの口から出てくる言葉を待っていたんだ。

天井のファンがゆっくりと動き、周囲の空気は緩やかに動いていた。

「ねえ、あなたは何を見ていたの?」

エマは、静かな声で、私にそう問いかけてきた。
彼女の質問の意味が理解できず、私はじっと彼女の目を見続けていたんだ。

ずっとずっと昔から知っている、大切にしていた人達が、急に違う言語を話し始めたり、思いもつかないような行動を起こしたら、誰だって呆然とするだろう?

だから私は、エマの問いかけに何も答えなかったんだ。
答えられなかったんだよ。

頭の中に一気に押し寄せてきたおかしな情報が、まるで……、そう。
行き場を失った大量の雨水が道を海に変えてしまうように、彼らの取った行動は、私を小さな子どもに変えたんだ。



そして、ただ目を丸くしている私に向かい、ケイとエマはこう言ってきた。

「あなたが見ているのは、あなたに起きた出来事の上っ面の部分だけ。事件が起きた年号だけを覚えているようなものよ。どうして、その事件の奥の奥に隠されているものに、自分の目を向けようとしないの?」

「あなたの周囲で起きている出来事を、何故そのままを見ないんですか?」

「見えないんじゃない。あなたが見ようとしないから、それは見えてこないのよ。さっき、あなたは心の中でこう叫んだはず。『どうして、彼らは笑っているんだ』ってね。そして、あなたはこう思ったの。『彼らは、自分を侮辱しているから笑っているんだ』って。私もケイも、違う意味を込めて笑っていたのに。なのに、あなたは自分勝手にそう解釈して、勝手に不機嫌になっていったのよ」

彼らの言葉の意味は、相変わらず分からない。
ただ、『自分は何かを間違えたのかもしれない』とは思っていた。

BARに座り、ケイがブラッディーマリーを作り、私はそれを受け取った。
その時までは、エマもケイも普段通りだったはずだ。
そして、エマと話し始めて……と、自分の記憶をせっせと掻き集め、どの時点の私が何を間違えていたんだろうと考えていた。




「あなたの周囲に広がる屈辱的な思いをする世界と、あなたと私と、エマがいるこのBARとは、なんの関係もありません。その二つのどこにも橋は掛かっていない。なのに、そこに橋をかけ、渡っていったのはあなたです」

「この場の雰囲気を楽しんで、笑いながら美味しいお酒だって飲めるはずなのに。暗い顔をしながら真っ赤なカクテルを飲んでいるあなたを見て、私達はあの時、こう思っていたの。『この人は、いまの楽しさを感じようともしないで、何十年も掃除していないような臭くて、暗くて、じめっとしたトイレの中に、自分から入っていってしまったわ。そして、臭い!臭い!と叫び続けてる』ってね」

「だから、私はあなたに聞いたんですよ。『同調して欲しいんですか? それとも同情して欲しいのですか?』と。そうしたら、あなたはまた、そこで怒りを選んでいった」

「『その社長さんは変人ね』とか『ああ、あなたは可哀そうな思いをしているのね』とか、そんな言葉だけであなたが救われるというのなら、私たちはいくらだって言えるのよ。でも、そんな救いは一時の気休めにしかならない。束の間の安寧で継ぎ接ぎした生活を、もうこれ以上、あなたに続けて欲しくないの。そして……、あなたもそれを望んでいない」

そして彼らは、鮮やかな口調でこう続けた。

「だから、終わりにしてあげますよ。私たちの手で。あなたをね」


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2015年11月13日金曜日

【ノアイレス】‐BAR‐⑥

彼らの顔から笑みが消え、真一文字に口を閉じたまま、私の目をずっと覗き込んでいた。
そして私は、そんな彼らの顔から目が離せなかった。

彼らの行動と、状況と、そしてそれに繋がっているであろう原因とを、頭の中で整理をしてみても、それらが一本の線では繋がらない。

なぜ、彼らは急に態度を変えたんだ。
なぜ、彼らは私を立たせなかった。
なぜ、彼らは私から目を反らさない。

浅くて速い自分の呼吸音が、自分の耳に響いていた。

なぜ……、どうして二人は、ずっと笑っていたんだろうか……。

機械か何かのように冷たい表情で私を見ている彼らに、どんな言葉で話を切り出したらいいんだろうかと思っていたら、カウンターに置かれたグラスの氷が、ふいに「カラン」と音を立てたんだ。




私がその音の方向に目を向けると、ケイの静かな声が聞こえてきた。

「あなたは、私たちに同調して欲しいんですか? それとも同情を?」

「なっ……」

ケイのその問いかけに、私は一瞬動揺して眉を寄せた。

私の話に賛同してくれなかったエマに対して苛立っていたのは確かでも、その感情を「共感してもらいたいのか? それとも憐れんで欲しいのか?」なんて、そんなあからさまな言葉を言われたことなんて、それまでに一度もなかったからね。

そして私は、そこでまた、怒りを覚えていったんだ。

「そのどちらも……、そうでしょう?」

エマがケイの意見に相槌をうつと、私の怒りはどんどん大きくなっていく。

この2人とは長い付き合いだ。でも、ここまで馬鹿にされたことが今までにあっただろうか。ずっと楽しく酒を飲み、静かに語り合える仲間だと思っていた。なのに、彼らにとっては違っていたんだ。私は仲間なんかじゃなかった。

「怒りでいっぱいって顔をしているわね。そしてきっと、それは私とケイのせい。あなたの話に同調の言葉を返さずに、そのうえ同情もせず笑った私と、私と一緒に笑ったケイも同罪ってところなんでしょう」

「あなたがそうして欲しいというのであれば、エマも私も、あなたのお望みの言葉を言いましょう。人は、口でなら何とでも言えますからね」

私は、大きくなりすぎた怒りのせいで、反論する言葉すら言えずにいた。真っ赤なブラッディメアリーが、カラカラに乾いた私の喉に流れていく。

グラスを持つ私の手は、高まる怒りで震えていたよ。


そして……。
そんな私の様子を見ながら、エマは静かにこう言ったんだ。





「もっとたくさん、真っ赤な血を飲んだらいいわ。だって、あなたは知りたいんでしょう? ねえ……」

あの時。
ああ、そうだ。
私の心臓は、ドクンと一つ、大きな波を打ったんだ。

彼女の口の端が、ゆっくりと、上がっていった。


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2015年11月9日月曜日

【ノアイレス】‐BAR‐⑤

ほんの数秒の間。
エマは私の目をじっと見続けて、私の目の中の、その奥にある「何か」を見ているようだった。

そして私の目は、そんな彼女の視線から逃げ、手元のカクテルを映し出したんだ。

「ふふっ」

エマの静かな笑い声が、視界の外から聞こえていた。




私は手に持っているカクテルの残りを飲み干して、グラスを置いて、そして視線をエマに向けたんだ。
彼女は目に笑みを浮かべながら、綺麗なグラスに満たされているブラッディーメアリーを飲んでいた。

ケイは、空になった私のグラスを下げると、磨かれた新しいグラスの中に氷を入れていく。
カラン、カランと、静かな音色が響いていった。

私の方を見ようともしないエマの態度が苛立たしい。
彼女が静かに笑っているのも不愉快だし、楽しそうに酒を飲んでいるのも不愉快だ。
彼女が着ている水色のシャツの色でさえ、不快な色に見えてくる。

私がいくら彼女をじっと見ようとも、彼女は私を見ようとしない。
エマのその態度に怒りはさらに高まって、私はまた、エマに刺々しい言葉をかけていったんだ。

「気づかないって、どういう意味だ。話を途中で切るなよ。人を馬鹿にしているような君のその態度は、大人が取る態度じゃないね」

突き刺すように投げつけたはずの私の言葉を、エマはまた「ふふっ」と笑いながら避けていくんだ。

全身の血が頭の方へと集まって、おとぎ話に出てくるような赤鬼のようになり、目は血走っていたかもしれないな。

「いい加減にしてくれないか?! 君のその笑い声は不愉快だ」

エマは私の顔をチラリと見ると、今度は下を向き、声をあげて笑いだした。
そして、彼女の笑い声につられる様に、滅多に笑ったことのないケイまで笑い始めていた。
真っ赤な色をした新しいグラスを私の前に差し出しながら、彼は声を殺して笑っている。

「おい、やめろ。君たちは私を馬鹿にしているのか?!」

彼らの笑い声は、私が声を荒げれば荒げるほどに、どんどんどんどん大きくなっていった。
エマは酒を飲みながら陽気に天を仰ぎ見て、ケイは自分の手元を見つめながら、グラスを磨き笑っていたんだ。

彼らに向い、どれだけ辛辣な言葉を投げつけようとも、私の言葉の全ては虚しく空を切っていった。




二人が楽し気に笑う声が小さな空間にこだましてて、私は大勢の人達から笑われているような気分になっていったんだ。

こんなにも不愉快で腹立たしい思いをするくらいなら、もう二度とこんな場所へなど来てやるものか。今日だって来るんじゃなかった。こいつらの顔など見たくもない。

「やめろ!」

二人の笑い声をかき消すように、私は笑い声以上の大声を上げながら席を立とうとした。
二人を睨みつけながら、わざと大きな音を立てて椅子を引いたのさ。

でも、あの時。
私は、立てなかったんだよ。

立とうとした私の襟ぐりを、エマは鷲掴みにして自分の方へと引き寄せて、大きくて茶色い彼女の目には、眉間に皺を寄せた私の顔が映っていた。

そしてケイは、静かに私の肩に手を置いたあと、力を込めて私を椅子に押し戻したんだ。



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2015年11月8日日曜日

【ノアイレス】‐BAR‐④

エマは眉を少しだけ上げ、ポカンとした表情を浮かべて私を見ていた。
彼女のそんな表情に、私も頭を傾けた。

なんとも掴みようのない空気が、私たち二人の間に流れていた。

エマの隣で、ずっと静かにグラスを磨き続けているケイは、その空気感を楽しんでいるようにも見えたが、彼の口からは、何の言葉も出てこなかった。

そして、エマはずっとポカンとした表情のままだった。

投げたボールが返ってこない、意味のない空白は、なんとも居心地が悪くて仕方がないものだろう?




だから、私は小さく咳ばらいをして、自分から話し始めることにしたのさ。

「こんな奴隷のような毎日を繰り返していれば、陽気な酒なんて飲めないさ。そうは思わない? なあ、エマ」

彼女の目をしっかり見ながら、私は彼女に問いかけた。
彼女の口から出てくるであろう言葉の数々を、私は期待して待っていたんだ。
でも、彼女の口は、その期待とは全く違う言葉の動きをし始めた。

「分からないわ。なぜ、あなたが陽気なお酒を飲めないのか。なぜ、あなたが笑わないのか」

エマは頭がおかしくなったのか? それとも、彼女はもともと馬鹿だったのか?
そう思い驚きながら、私はケイの顔を見たんだ。

彼は、静かに笑っていたな。

「なあ、エマ。私の話をちゃんと聞いていたのか? 分かった。前に話したことがあるかもしれないが、最初から、ちゃんと説明していくよ。いいかい? いま私が働いているあの会社は、経済的に瀕死状態なんだ。半年後の資金繰りすらお手上げな状態さ。この危機的状況を乗り越えるには、銀行からの融資を受けるしか手はないんだ。いま現在でも溺れるほどの融資を受けていて、案の定、それらの金利支払いに喘いでる状態なのに、それでも借りなければ乗り越えられないんだ。でも、あの独裁者自らが、他人に頭を下げることなんてあり得ない」




カクテルで口の渇きを潤しながら、私は話を続けていった。

「そして、会社にいるのは一般社員が私を含めて2人だけ。あの小さな小さな独裁国家の全権力は、あの独裁経営者が握っているんだ。一般社員にはどうすることも出来やしない。私がそこでやれる事といえば、他人を蔑み、他人に毒づき、自分の権力を見せつけてやったという武勇伝に対して拍手喝采を送ることだけ。でも、それをしていたって恫喝と迫害が待っている。追加で融資を受けなければ金がないという状況と、そこから出てくる不安感と憤りを、社員である私たちに思い切りぶつけてくるんだ」

エマに話しているだけで、私の中には怒りがどんどん込み上げて、次第に呼吸まで荒くなっていく。

「ええ、そうね。その話は、少し前にあなたから聞いたわ。でも……」

エマは手に持っていてたカクテルを一気に飲み干すと、空のグラスをケイに渡してカウンターに頬杖を突き、そして私の顔を覗き込んでこう言った。

「ねえ、気づかない?」

至近距離で動いた彼女の唇は、ブラッディーメアリーと同じ色をしていた。






2015年11月7日土曜日

【ノアイレス】‐BAR‐③

価値観の違いから起こる衝突と、その衝突から生まれる悲劇。

私が平伏するあの独裁者は、時のブラッディーメアリーで、迫害されている人民は私なんだ。
勇気を振り絞り、その迫害に立ち向かった者たちはどうなった。
失意のうちにこの世を去っていったじゃないか。

そして、平和だと言われているこの国でも、似たようなことは起きている。
現代でも可能な、正当な権利とされる方法に形を変えてね。

「今日は随分と暗い顔ね。そんなんじゃ、ケイのお酒が暗い味になっちゃうじゃない」

私と同じ真っ赤な色をしたグラスを持ちながら、エマは私の顔を覗き込んで笑っていた。




彼女はいつもそうなんだ。
いつも笑っているんだよ。

その笑顔に、あの時の私は苛立ちを覚えながら目を反らし、大きくため息をつきながら口を開いたんだ。

「暗い顔にもなるさ。理不尽なことばかりが続く毎日だからね」

「理不尽なこと? ああ。前にあなたが話していた、あなたの会社の経営者さんのことでも思い返していたの?」

エマの顔に視線を向けると、彼女は笑顔のままだった。
私はまた視線をずらし、カクテルを飲みながら話を続けていった。

「ああ、そうさ。今いる会社の経営状態が悪すぎてね。半年後には会社の金が足りなくなる。そういうことを管理していくのが私の仕事。だから私は、その事実をあの独裁経営者に報告したんだ。そうしたら、あいつ何て言ったと思う? 『そんなことを報告してきて何になる! 嫌がらせのつもりか?! 俺の給料を下げろってことか?! 冗談じゃない! 金が足りないんだったら、お前が自分の給料を下げてくれと俺に頼むべきだろう!』と、きたもんだ。おかしいだろう? あの会社は私の会社じゃない。しかも、私はまだ入社して1ヵ月なんだ。なのに『お前は能無しだ』とか、『会社のことを考えて行動出来ない間抜けだ』とか、それはもう散々な言われようさ」

「あはは! あなた、能無しだったのね!」

エマの声に笑いが入り、私の気分はどんどん苛立っていった。




腹立たしい笑いを消すように、私はトゲのついた自分の言葉を、彼女の笑いに被せたんだ。

「前任者も1ヵ月で辞職をしている。その前も、その前の人だってそうだ。あの会社に居た人達は、独裁者の凝り固まった考えからくる暴言と、奴の狂った頭についていけずに辞めていく。そして、独裁者は後から入ってきた者に語り始めるんだよ。前任者がどれだけ無能で、どれだけ馬鹿で、自分はそいつらを辞職に追い込んだ有能な経営者だという武勇伝をね。そんな戯言を聞かされても、そんな心無い経営者でも、私は彼を絶賛し続けなければいけないんだ。そして、そうしなければ、自分は生きていけないんだと気付いた時に、分かったんだよ」

「何が分かったの?」

「毎日毎日、面と向かって自分の能力と人格を否定され続け、反論も出来ず、ただ独裁者のご機嫌を取り続ける。彼の逆鱗に触れぬよう万歳三唱を繰り返していくことが、自分に出来る唯一の仕事なんだってことをさ。金という権力を手にしている者の前には、どんな小さな反抗すらも許されないのが世界ってやつなんだ」

自分の言葉が、自分の中に響いていた。
心の中に溜まった不満が、渦を巻きながら自分に襲い掛かってくる。

「そうなのね」

エマの声には、相変わらず小さな笑いが含まれていた。
本当に分かっているのか、それとも、全く聞いていないのか。

彼女が返してきた、いいかげんとも取れる返事の仕方に、私はとにかく不満だった。

それでも、トーンを下げた彼女の声は、私の視線を彼女の顔へと動かしたんだ。


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